ひび割れた器
目を開けると同時に歪む視界に、酷く吐き気がした。
胃の内側を急激に冷やされ、針金で緩やかに締め上げられるような痛みと不快感が胸いっぱいに広がる、最悪な目覚め。
この痛みの前では寝汗でぐしゃぐしゃに濡れた寝間着など、余りにも些細で気にならない程だ。
ここはどこ。──自分の部屋だ。
上下の感覚が分からない。────大丈夫、ベッドの上にいる。
自分は、自分は誰だっけ。
そこまで考えて、再び意識は強制的に闇の中へと引き戻された。
「あ、あー…………全く……“僕”で、これですか……嫌だなぁ」
つい先程まで急激な体調不良に苛まされていたジェイドの人格を無理矢理押さえ付けるようにして、代わりに出てきたのは第二人格であるヘリオドールだ。
重く、動くのも億劫な身体。
言う事を聞かない、力。
魔力をフォトンに変換しようとしても上手くいかず霧散し、ただの魔力が勝手に身体から溢れ出そうになるのを必死に抑え込む。
こんなのでは仕事にすら行けない。
ざっと頭の中の記憶を掘り出して、思い当たる原因は二つ。
五番艦にいた時に世話になった科学者が別れる時に言ったのだ。
「君はどこかの隊にでも所属した方がいいだろう」
──なんて、無責任に。
元より人が怖い癖に人が好きなジェイドの事だ。
“世話になった男が言っていたから”という大義名分を得て、乗り気ではない顔をして入隊希望を出した事もヘリオドールは知っている。
尤も、件の科学者がジェイドの心の内と力を見抜いた上で入隊を勧めたという事も、一応分かってはいるのだが。
大罪人ジェイド・アイスフォーゲルは罪を犯した結果、封印された。
これが、ジェイドやシャルロットが過ごしていた国にまかり通っている事実だが、少し違う。
罪を犯したのはヘリオドール。
ジェイドはその尻拭いをしたに過ぎず、ジェイドを封印した者達は“封印した”と思い込んでいるだけだ。
普通にしていたら他の人格がやった事など、やられた側からしてみれば全く関係ないというのも彼らは分かっていたからジェイドは罰を受ける事を選んだ。
彼とその弟子シャルロットは、その時の衝撃で惑星ウォパルに転移。
封印を直に受けたジェイドは力の殆どと前後の記憶をウォパルに取り零し、そこで五番艦所属の科学者、ガロに拾われたのだ。
本当にただ巻き込まれただけのシャルロットには大変申し訳ない話だが、ヘリオドールとシャルロットとガロはその時に決め事をした。
ジェイドが、何があってオラクルに転移する事になったのかは本人が思い出すまで秘密にしようと。
封印される時の、他の魔術師達の殺意と畏怖の視線はジェイドには耐えられるものではないだろうから。
封印された力は敢えて触らずに、そのままにしておこう。
独りで生きる術を失い、誰かとカバーしあいながら人としての生き方を改めて身に付けた方がいい。
ジェイドの精神状態で、記憶と力を取り戻す日を迎えてしまう方が厄介だ。
入りたいと思える隊をジェイドとシャルロット、ヘリオドールで和気藹々と探して向かったのが三番艦だった。
隊に入ってからジェイドも暫くは楽しそうに過ごしていたから、副人格として安心して見守っていたところもあったのだが。
ここからが一つ目の原因。
普段クールぶっているジェイドからは想像出来ないような気もするのだが、ヘリオドールには繋がっているからか何となく分かる。お互いの考えている事が、何となく分かってしまう。
あれだけ入隊を楽しみにして、隊の役に立ちたいと、誰かの役に立ちたいとジェイドなりに努力していたのだが。
唾棄された奴隷の血は余りにも根深い。
ここにいていいのか。
迷惑になっていないか。
きちんと笑えているか。
役に立ってはいるのか。
────生きていて、良いのだろうか。
誰に何かを言われた訳では勿論ないのだが、勝手に悩み出し自己嫌悪に陥るのは彼の悪い癖だ。
今まで悩み事が発生すると、それを分かち合う仲間というものと過ごした事がないのでジェイド自身から発する言葉も足りない。
それでも三番艦に着いてから隊に入るまでの短いインターバル期間に知り合った友人、梓緋にはぽつりぽつりと打ち明けた事があるのだが、彼女は優しいから総てを肯定してくれた。
それを信じる力がジェイドに備わっていたならば、今ヘリオドールは彼の代わりにこのように苦しむ事もなかっただろう。
生きる事すら疑問に思ってしまうが、だからといってジェイドは死にたい訳でもないのだけれど。
寧ろ彼は死を極端に嫌う。
そうではなく、分からなくなってしまった。
暖かい場所にいればいる程、己の血が如何に穢いものであるのかが浮き彫りになって、分からなくなる。
勿論、誰しもが自分の辛さを曝け出して生きている訳ではないだろうから、言わないだけで自分以上に辛い想いをしている者だってもしかしたらすぐ身近にいるのだろう。
自分と他人の辛さや痛みを同じ目線で測ろうとする事自体がナンセンスである事は、この際置いておくとして。
そもそもジェイドだって何かが辛い訳ではない。分からないだけだ。
神も、自分を利用した他人も、見て見ぬ振りをしてきた大人達も怨んでないし、憎んでない。
息の仕方が、人との関わり方が分からなくなってきただけなのだ。
彼はもっと、人を愛するべきだった。
「愛さなくても構わないから、愛させて欲しい」──これは、誰の想いだったっけ。
だから原因はこの、「分からなさ」。
ヘリオドールという別人格を持ちながら、更に自分自身を騙して生きてきた結果、今ここにきて「生き方」が分からなく、なった。
魔力を扱うには強い心がいる。
「自信に満ち溢れた強い自分」という理想の器に入れていた魔力は、器にヒビが入れば漏れ出るに決まっている。
ジェイドがこれ程までに堕ちる要因になるものも、ヘリオドールには察しがついていた。
二つ目の要因だ。
そもそも魔力の制御が効かないのである。
卵が先か、鶏が先か。
ジェイドが器を喪ったから魔力が溢れだしたのか。
魔力が溢れだしたから、ジェイドの器が壊れたのか。
タイミングの問題だ。それは一度に訪れた。
内側からヘリオドールが抑え込んではいるが、ヘリオドールは“放出”しか出来ない。
出てしまったものに対して、“衝立になる”のは専門外なのだ。
周囲のものへ対する、どうしようもない破壊衝動。
それでも人を傷付ける事を極端に恐れるジェイドならば、まだ比較的安全に魔力放出が出来るだろう。
ヘリオドールはそんなに器用に出来ていない。壊すとなったら必ず壊してしまいたくなる。
だから本来なら今現在、ヘリオドールが表に出てくるのは彼らの中では不正解。
すぐさまにでもジェイドに交代したいくらいであるが、彼は身体の不調にそこまで耐えられるようには出来ていない。
実に悩ましい。
気配で何となく分かるのだがウォパルに施された封印に綻びがある、ように思える。
触れられたくない傷痕を、誰かに触られたような感覚。
あの場所はわざわざガロが裏で色々と手を回し、隔離区域に指定してくれた場所なのに一体何故。
ジェイドは自分の力で制御出来ない力というのを殊更嫌う。
己の無能さを、無力さを思い知らされるからだ。
この身体に渦巻く殆どの魔力は“ヘリオドール”が精製しているものであり、ジェイドではない。
ヘリオドールが生み出す力を、他者の望みを叶える為に使っては生きる為の糧を得る生活を続ける事十四年。
ジェイドは自分が、中身のない殻だけの存在に思えて仕方がなかった。
口調も変えて、取り繕って、自分自身にも他人にも嘘を吐き続けて、自分の本来持ち得なかった能力を振るい、時に副人格に交代してもらい庇ってもらって、……それで、他人の為に役に立ちたい、などと。
そんなの、────
────────ああ、まただ。
ぐるりと天井が反転して、世界が極彩色に色付いているような気すらする。
それも七色にキラキラと瞬く美しいタイプではなく、やがて隅の方から茶褐色へと変色していくタイプの汚ったないやつだ。
視界が歪む。ものの形がおかしい。
マイルームの隅はこんなにもまあるくなかった筈だ。
ヘリオドールでそうなのだから、ジェイドが耐えられる訳もない。
そしてもう、ヘリオドールだけでどうにか出来る段階でもない。
完全に魔力過多、それも一年間魔力減少状態に慣らした上でのこれである。
五番鑑に連絡を取るにしても、正規ルートでアークスになっていないジェイド達は手間取ってしまう。
ガロとメールや通信でのやり取りが出来たとして、即時解決するとは到底思えない。
────だったら、まずは急激に封印を緩められて溢れ出て詰まってしまった魔力を、なるべく安全に放出する事が先決だ。
この地で更に罪を重ねる訳にはいかない。
ヘリオドールは震える手でジェイドの端末を操作する。
文字が読めない。打ち間違う。目を焼く光が、きもちわるい。
それでもこれがジェイドに罪を擦り付けた者への罰だとするなら、生温いなと思った。
きちんとした文章で端的に。
匿名として名を暈し、優しい人達へメールを。
皮肉な事に、頼れるのは彼らしかいない。
人は独りでは生きていけない。
そんなの、“人”であるジェイドなら分かっていた筈じゃないか。
傲慢、不遜、自信過剰。
固め続けていた仮面の、器のヒビは更に広がっていく。
- 最終更新:2017-11-17 20:36:34