ある日常の風景 その1


「……オルガ姉さん」
 深夜。
 報告書作成のために個人端末へ向かうオーガスタに、珍しくオクタヴィアが声をかけて
きた。
 日頃から家事や雑事に追われ、アークスとしての仕事に取りかかれるのはこんな時ぐら
いしかない。そして手が空く頃には隊の皆もおよそ引き払ってしまっているし、オーガス
タ自身も疲れ果てている。
 故に、簡単なデスクワークぐらいにしか手を付ける気になれないのだ。
 嘆かわしい話だが、もう慣れた。
「ん……どうかしたの?」
 タイプの手を止め、妹の方を見遣る。
「……マーチェ姉さんが……いない」
 低く、呟くような声でぼそりぼそりと言うオクタヴィア。
 聞き取りづらいが、それにももう慣れた。
「どこかに遊びに行っているんじゃないの? 別に珍しくもないでしょう」
 むしろあの放蕩者は、家にいる時間の方が少ない。
 その点は末の妹のディースも似たようなものだったが、今は部屋の隅のベッドでいびき
をかきながら眠っている。
「まあ……うん、でも……」
 オクタヴィアはちらりと視線を走らせ、部屋の壁掛け時計を見た。
 つられて時計を見、オーガスタはぎょっとする。
 シップ内標準時間で、午前三時をとっくに回っていた。
「やだ……もうこんな時間なの?」
 まだ日付が変わって少し程度だと思っていたのに、思いのほか仕事へ入れ込んでしまっ
ていたらしい。
 明日もあるというのに、これではいくらも寝られないではないか。
 頭痛の種がまたひとつ増えたことに、オーガスタは思わず嘆息しそうになる。
 すんでのところでそれを堪え、軽く頭を振った。
 ため息ひとつつくごとに、幸せがひとつ逃げていくという。
 気苦労は絶えないが、ため息は極力つくまいと、彼女は己に決めていた。
「……そう、もう、こんな時間。……マーチェ姉さん、遅いね」
 マーチェが外を遊びにほっつき歩いていることなど珍しくもなんともないが、こんな時
間まで家にいないというのは確かに稀なことだった。
 意外とこの引きこもりの妹は、そういうところを気にする。
 それ自体はいい事なのだが、できればその関心をもっと別なことにも向けてほしい、と
オーガスタは日頃から思っていた。
「そうね……」
 しかしオーガスタは、マーチェの不在について特に思うところはなかった。
 稀ではあるが無いことでもないし、なによりあの姉にどんな心配が必要だというのか。
 とはいえ、それを表情に、ましてや口に出すようなこともしない。
 少なくともオクタヴィアは気にしている。
 そして彼女がそれをことさらに気にする理由も、オーガスタはよく知っていた。
「大丈夫よ、ヴィア。そのうち何事もなかったみたいに帰ってくるわ」
「そう……かな。オルガ姉さん……そう、思う?」
 オクタヴィアは、呼びにくいという理由でオーガスタをオルガと呼ぶ。
 オーガ、では何か別なものを連想するかららしい。
 だからといってオルガでももはや別人のような気はするが、特に不満もないので呼びた
いように呼ばせていた。
 むしろ呼びにくさという点ではオクタヴィアのほうが上である。
 そのため彼女は、姉妹全員からヴィアと呼ばれていた。
「ええ。だからヴィア、貴女も今日はもう休みなさい? これ以上夜更かししていると、
朝ごはんに起きられなくなるわよ」
 そう言ってデスクから立ち、妹を軽く抱き締めてやる。
 朝食に起きられなくなりそうなのは自分の方だったのだが、そこは考えないことにした。
「……ん。分かった……じゃ、おやすみ……なさい」
 少し安心したような表情を見せ、オクタヴィアは素直に頷く。
 そして、ふいっと背を向けて自室へ戻っていった。
 もういい歳の大人なのだが、こういうところは子供っぽい。
「さて……」
 オクタヴィアは一日の三食を決まった時間にきっちり食べる。
 引きこもりではあるが、そこは律儀なものだ。
 とはいえ自分で作ることはせず、放っておくとろくなものを食べないので、オーガスタ
がまともな食事を作ってやらねばならない。
 習慣自体は良いのだが、己の手を取られることにもなっているこの状態はなんとも悩ま
しいものだった。
 ともあれ、もう時間が時間だ。
 自分もさっさと寝なければ。
 報告書はキリの良いところまでやりたかったが、仕方がない。
 もはやすっかり馴染みとなったある種の諦観を胸に、オーガスタはデスクへは戻らず、
部屋の隅のベッドへ向かう。
 そしてそのまま靴を脱ぎ、ベッドへ己が身を投げ出した。
 すぐ隣では、ディースがいびきをかきながら寝こけていた。


「おはよう諸君! いい朝じゃなぁ!」
「ええ、そうね」
 元気いっぱいのその声に、オーガスタは朦朧とする頭でそう返した。
 翌朝、目を覚ますとマーチェは帰ってきていた。いつ帰ってきたのかはよく分からない。
「なんじゃオーガスタよ。おぬしはなんか元気ないのう、大丈夫かえ? ん?」
「ええ、そうね」
 顔を覗き込んで問うてくるマーチェに、オーガスタは無気力に答えた。
 誰のせいだと思っているの、と言いかかったが、口には出さなかった。
 別にマーチェのせいではないからだ。少なくとも今回のところは。
 原因はディースにある。彼女のいびきがうるさかったおかげで、ほとんど眠れていない。
 明け方に少しうとうとしただけだった。
 もっと寝ていたかったが、朝食もあるためにそうもいかない。オクタヴィアが好きにつ
まめるものを作り置きしておかなかったことを、オーガスタは心の底から後悔した。
 そして当のディースはというと、朝の早くに起き出して、さっさとどこかへ出かけてし
まっている。
「……それより姉さん、いつ帰ってきたの……というか、どこへ行っていたの? ヴィア
が気にしていたわよ」
「お、おう……」
 オーガスタの言に、ほんの少し歯切れの悪くなるマーチェ。
 彼女もオクタヴィアの心配性は承知している。
 心配させたことに、幾ばくかは後ろめたさを覚えたのだろう。
 そのオクタヴィアはつい先ほど、いつもどおりの時間に朝食を終え、また自室に引っ込
んでいる。
「仕事じゃよ、仕事。言うておらなんだっけか?」
 それを聞いて、オーガスタはぽりぽりと頬を掻いた。
 いま、仕事と聞こえたような気がする。
 空耳だろう。多分。
「……それで、何をしていたの?」
「じゃから仕事と言うておろうが。大丈夫かおぬし」
 胡乱なものを見るような目つきでマーチェは言った。
「……」
 仕事と言って、それをはいそうですかと信じてはもらえない原因は間違いなくマーチェ
自身にあるのだが、その自覚は無いらしい。
「ほれ、コレじゃコレ」
 言って、マーチェがオーガスタの眼前に掲げた携帯端末。
 そのディスプレイには、二人の所属する隊の内部サイトの――昨日付けで行われる作戦
の概要を記したページが表示されていた。
「ああ……」
 そういえば見た記憶があった。
 隊のメンバーである、シヅルを通して下りてきた任務だ。
 これよりひとつ前の作戦には、オーガスタ自身も参加している。
 今回は報告書が溜まっていることもあって難しいと断ったのだが、実施日のことまでは
覚えていなかった。
「ちょっと待って姉さん。これに参加してきたの?」
 そんな話は聞いていない。
「そうじゃけど?」
 そのあっさりとした答えに、にわかに不安が襲う。
 このちゃらんぽらんが珍しく仕事、しかもよりによって隊での仕事などと。
 真面目に働いてきたのか。
 隊の皆に迷惑などかけていないか。
 気がかりは山ほどあるが――。
「どうだったの? お仕事は」
 結局、ただそう問いかけるにとどめた。
「おう、おもしろかったのう」
 対して、なぜか棒読みで答えるマーチェ。
 だがその表情は緩み、頬がぴくぴくしている。
 笑うのを堪えているのだろう。
「……で、どうだったの?」
 辛抱強く、もう一度だけ訊ねてみる。
「うむ、たのしかったのう」
 また棒読みだった。
「そう……」
 オーガスタは答えを得ることを諦めた。
 からかわれているだけということも、本気で話を持っていけばそれなりの答えが返って
くるであろうことも分かってはいる。
 が、それを為す気力を、今は持つことができなかった。
 後で誰かの上げた報告書を読むか、他のメンバーに聞いてみよう。
 確認するのは怖いが、しないわけにはいかない。
 もしもこの姉が無用の迷惑をかけていたりしたら、それなりの対処は必要だった。
「なぁんじゃ、また辛気臭いツラをしておるのう? ほれほれ」
 オーガスタの心持ちを知ってか知らずか、マーチェは脳天気に妹の頬を両側からうにう
にとつまんでくる。
 誰のせいだと思っているの、とオーガスタはまた言いかけたが、やっぱり口には出さな
かった。
「さてっと、儂ゃまたちいと出かけてくるわ」
 オーガスタをからかうのにも飽きたのか、マーチェはそれだけを言い置いて、また出て
行こうとする。
 明け方近くまで任務に出ていて、まともに寝ていないはずだ。
 なのに眠たげな様子さえなく、実に元気なことである。
 けれど、引き留めることはしなかった。外に出ていてくれたほうが、仕事は捗る。
「あまり遅くなるようなら連絡は頂戴ね。またヴィアが心配するから」
 姉の背中に、一応そうオーガスタは声をかけた。
「おう、おう」
 分かっているのかいないのか、振り返りもせずにマーチェは返し、手をひらひらと振っ
て見せ、そのまま部屋から出て行く。
「……やれやれ」
 釘は刺しておいた。ひとりでに抜けるかも知れない釘だったが。
 気を取り直し、昨晩の仕事の続きにかかるため、自室のデスクへ向かった。
 端末の前に座ると、無意識にひとつ、大きなため息をつく。
 ため息は極力つくまいと、オーガスタは己に決めていた。
 けれどそれを度々破っていることに、彼女は自分で気づいていなかった。


 仕事に取り掛かってから、いくらも経たぬ頃。
 不意に、部屋に備え付けのビジフォンが鳴った。
 部屋のビジフォンのコール音など久しく忘れていたオーガスタは、その正体に思い至る
までに数秒の時を要した。
 個人間のものであれ、アークスからの業務連絡であれ、通信といえば個人端末へと直接
もたらされるものばかりだったからだ。
 珍しいこともあるものだと、デスクを立ってビジフォンへと向かう。
 その足取りがややふらついたものであるのは、今の今まで睡魔に意識を奪われかけてい
たためなどではない。決して。
「はい。……あら、バークハート博士?」
 ビジフォンを操作し、通話を開く。
 するとそこに映っていたのは、オーガスタの見知った者の顔だった。
「お久しぶり。……ええ、もう四人ともこちらへ移ってきたわ。……そうね、特に何も変
わりはないわよ。博士こそ――」
 馴染みの相手とのやり取りに、幾分か気を緩めて応じる。
 その姿は、ご近所様との井戸端会議に花を咲かせる主婦そのものだった。
「ふふ、お互いに息災のようで何より。こちらは相変わらず……姉さんたちに振り回され
てもいるけれどね。……大丈夫、分かっているわ。ところで――」
 用向きは何なのであろうか。
 見知った相手ではあるが、このように直接連絡を寄越してくることは稀だ。
 であれば、相応の要件があるということなのだろう。
 そちらへ話題を向けるべく、オーガスタは切り出した。

 そして、この日、チェスター・バークハートよりオーガスタを通じて、ラッピー捕獲隊
へと一つの依頼がなされることとなる。


  • 最終更新:2017-05-04 21:53:18

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